村上春樹の「正論原理主義」にひとこと

2009.03.17

村上春樹の独占インタビューが「文芸春秋」4月号に掲載されています。

エルサレム賞を受賞することに決めた経緯はすでに彼のスピーチの中でも触れられていることの繰り返しだったので、それ以外で印象的な部分を少し。。

ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

 
「いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。」というくだりは、稚拙ながらも訳した人のひとりなので、うれしいコメントですねぇ。まあ自分で訳さない限り、納得できなかっただけなんですが、それでも、見てくれてはいなくても、その行為を知ってくれていたということが妙にうれしかったりします。
 
そしてやっぱり気になったのは「ネット空間にはびこる正論原理主義」という表現でした。
 
正論原理主義ってなんでしょう? おおまかにはその後の文章で彼自身が説明してくれていますが、学生運動のころを知らないせいか、どうにもピンと来ません。
 
というわけでとりあえず調べてみたわけですが、正論原理主義という言葉自体は村上春樹の造語にあたるようで「正論」+「原理主義」と解釈するといいのかなぁ。「原理主義」というのは

ファンダメンタリズム (Fundamentalism) の訳語であり、宗教上の原典を絶対視する主張・態度を指す用語(ウィキペディア)

ということなので、この場合は正論であることを絶対視する主張や態度ということになるのかもしれません。
 
その後の文脈を読む限りでは、正論をかざす議論の上手な人が、曖昧で微妙なニュアンスを口べたにながらもなんとか語ろうとする人を、ネットから追い出そうとしている状況を怖いといっているようですね。その状況が怖いというのであれば、それはちょっと違うかなぁというのが私の感想。たぶん、今回のエルサレム賞の受賞を辞退させるネット上の運動がそれだけ過激に思えたから、そこに焦点があたってしまったのかもしれません。
 
でも、いつの時代でも話す技術、語る技術の上手な人が、そうでない人を駆逐してきたと思うのです。そう考えると、語る技術のない人にも、語る場所や聞いてくれる人が出来た。いうこと自体が革命なんじゃないでしょうか。もちろんネット上にも正論原理主義はあるでしょう。でも、それ以上に、自分の言葉で誠実に語ろうと努力している人が多いのも事実です。テクニックがないばっかりに、埋もれてしまいがちなのが残念なことですが、それもまた現実世界と同じというだけで。。。自分の中の何かを誰かに伝えるチャンスが増えているということを考えると、ネット空間にはびこる正論原理主義など、たわいのないことだと思うのですがねぇ。
 
 
そうそう、インタビューと合わせて受賞スピーチの本人訳というか日本語版も掲載されているのでほんとの日本語原文を読まれたい方は手に取ってみてください。

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